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本能寺の変:信長はなぜこれほど不用心だったのか…考えにくい怨恨説


織田信長



戦国時代の転機となった「本能寺の変」に関して、初めて確認された旧本能寺遺構は、
織田信長の常識ではとらえがたい行動を裏付けることとなった。
あれほど執念深い人物がなぜ、わずかな供だけで無防備な宿舎に入ったのか。謎はますます広がっている。

「この石垣が、信長の時代のものであることは間違いない。それと遺物、とくに瓦の量などから
大きな伽藍(がらん)が焼けた可能性は低いのではないでしょうか」
発掘調査にあたった吉川義彦・関西文化財調査会代表は、こう話す。
遺構の伸び方からみて、堀が巡らされていたのは、境内の東北隅にあたるほぼ40メートル四方。
この場所に、信長の御殿があったことは疑いないという。

規模の小さな御殿で、しかも警護の者は少ない。
圧倒的な兵力(1万3000人)の明智軍を前に、信長はあっけなく自害。
戦いはすぐ決着がつき、伽藍の被害もそれほど大きくなかったということのようだ。
それにしても、信長はなぜこれほど不用心だったのか。
今谷明・国際日本文化研究センター教授は「光秀が叛くとは、考えてもいなかった」とみている。

光秀の謀反の理由については、
(1)領地替えを命じられたり、安土城での家康接待役を免じられたりしたことに対する恨み
(2)佐久間信盛ら重臣が次々、追放されたことに対する焦燥や危機感
(3)足利義昭や近衛前久(さきひさ)ら、旧幕府・朝廷勢力に唆(そそのか)された
−などの説が唱えられている。


しかし、今谷教授は、光秀は城持ち大名になったのも早く、かなり優遇されていたことなどから、
怨恨(えんこん)説は考えにくいとする。
やはり、本能寺に少人数で宿泊するとの情報を得た光秀が「天下取りのチャンス」と、決断したとみている。

また信長は、近々朝廷に、自分の望む官位を伝えることになっていた。
(1)関白(2)征夷大将軍(3)太政大臣−の3説があるが、
今谷教授は「毛利氏の攻略にめどがたった時点で、征夷大将軍を受け、幕府を開こうと考えていた」と話す。

一方、脇田修・大阪歴史博物館長は「平氏の流れをくむと自称していたから、平清盛の先例もある太政大臣ではないか」
とみている。

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